死の恐れから
生きている限り、最後には必ず死がありそれは避けることが出来ない。死という恐怖、それは無になることだ。全てを失う。その恐怖から逃れるために、あの世を創造したり、復活や再生を想い、宗教が生まれたと思う。
死の恐怖から回避するための宗教、「どう死を迎えたらいいのか」「どう死を受け入れたらいいのか」、そのことを突き詰めるのが宗教であり、それが転じてどう生きるかを諭すのも宗教である。つまり「より良い生き方」「地域民族のより良い暮らし方」を教える道徳としての宗教が成り立つ。
日本人は戦後、無宗教になった。それから道徳も失った。
本質的に日本人はミックスされた宗教観を持つ。仏教・神道・儒教が混じり合い、そこに道教や禅のエッセンスも含み、且つキリスト教も入っている。産まれたら神社に挨拶、七五三の節目も神社、結婚式はキリスト教で、葬式は仏教、道徳的には儒教・・・それを当たり前と思っているので、一つの宗教に囚われていないから、信者であるという認識もなく、だから無宗教だと思っている。
医療は祈りから科学に移り、身体の仕組みは化学的に生体反応をエビデンスとして示すことが出来るようになった。命に対する道徳も宗教観のない日本では化学的に捕らえられようとしている。ところが最近は科学万能では解決しない「見えないものの力」が注目されるようになっている。
命の根源を辿ればそれは偶然ではなく、何か大いなる力が働いていることに気づく。道教ではそれを「道」という。つくづく思うのは古代中国人は、自然現象をよくよく観察してその仕組みを理解していたということ。気という発想も科学では「そんなものあるかいな」となるが、見えないものに力があると考える、けしてこれは神秘主義でもオカルトでもなくて、古代からの思想・宗教・道徳には、本質的なものがあるのだ。
だから、何故「鍼は効くのか?」「ツボって何?」「経絡は本当に繋がっているのか?」「そもそも気とは?」等の疑問を化学的に証明することは難しいが、あるものはある。判る人には判る。言葉ではなくて体感することで知ることが出来る。と言う表現になってしまう。
・・・と話は難しくなってしまったが、こんなことを朝から考えている僕はどうなんだろう。でも、芸能界とかTVの中のドラマもバラエティもそもそも新聞も週刊誌もネットの話題など世間を騒がせるものにまったく興味が無くて、命とか自然の変化とか、宗教哲学とか、古代史とか民俗学とか、そういうことに夢中になる自分だからこそ、鍼灸師に向いているのだなと思う。
鍼灸師は医師と違い、死に関わることはない。だから、諦観や宗教心も持たないで良い。その分偏りやすい。一般的に鍼灸師は変わり者が多い。それはそういうことなんだろう。でも人としてまともでなきゃ困る。それは道徳心、特に儒教で言う仁の心。それを持って温かく迎入れられる人でいつもいたいと思う。
こんな鍼灸師で良かったらお付き合い下さい。
こちらからホームページにジャンプできます。http://moka-harikyu.life.coocan.jp/
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